怖さを知って書けなくなる ー我々が仲間を求める理由ー

こばち最後の担当記事です。
ネット上には、作家志望者が集うコミュニティサイトがいくつかあります。
そこではたくさんの仲間たちが、同じように苦しみながら作品を発表したりしています。
たいていの場合、のびのびと楽しそうなのが書き始めたばかりの人で、発表のサイクルも短いです。
作品に感想を貰えること、物書き仲間との交流や、一番は『反応がある』ことが嬉しいのです。
ところが、もう少し進んで作品を読む目が養われてくると、他作品と自作品の差に悩むようになっていきます。
書くことに躊躇いが生まれます。
自分はどうして、こんなふうに書くことができないんだろう。上手い人と自分は、いったいどこが違うのだろう。
たまには厳しいことも言われます。夢は突然砕かれて、現実が目の前に突きつけられる。^^;
そうしてやがて知らなきゃならない。自分にはなにひとつ足りていなかったことを。
書き始めてしばらくすると、誰もがそういう状態を経験するのではないでしょうか。
自分の『本当』と向き合うステージですよね。
その頃こばちがある人にもらった言葉。あまりに衝撃で、今も鮮明に覚えています。
『あなたの書くものにはなにもない』
意味が理解できるまでに結構な時間がかかったけれど、書き続けて八年ほどになる今は、それも大した時間じゃなかったのかもしれないと思ったり^^;
そうして今は、この言葉を大切に思っています。
当時のこばちは、書くことの何も見ていなかった。美しい(と思える)文章。心に響く(と思われる)設定。雰囲気や、飾り、そうした上辺ばっかりを見て、書けた気持ちになっていました。
結果として私が書いた文章は、借り物をつなぎ合わせただけの張りぼてだったんだと思います。
なぜ、それを書くのか。なぜ、書かずにいられないのか。
そういう何かを書くのではなく、ただ書くことに価値を見いだそうとしていた。
恥ずかしいですが、こばちだけ?? 笑
書くという行為は孤独です。
私たちは自分自身と向き合って、いいところも悪いところも、どう思われても、なんであっても、書くべき事を書き、伝えることを伝えるために奮闘する。
小説は書き手と読み手で作る世界です。
書き手がどんなに苦労しても、どんな状況でそれを書いても、読み手には関係ない。
伝わったすべてが結果になる。
つまり、私たちは、主観と客観でそれを書くということですね。
推敲中ブログが本気の書き仲間を求めているのは、実はそういう理由からです。
書くことから逃げられず、読むことに魅入られて、素晴らしい作品に胸を焦がし、できるならいつか、そういう作品を生み出す側にまわりたいと考える。真剣にそう思うからこそ、仲間(客観)は大切です。
上手下手は関係ない(悩んで書き続ければ必ず上手くなっていくから。^^)情熱と勇気が大切です。
なので、あなたが書くことに真摯であるなら、えいや!と、声を聞かせて下さい。
我々はそれを待っています。