高い壁を想定し、その二倍の高さを飛び越えろ!

こばち記事の2回目です。
前回の記事では地獄の作家生活について触れました。
では、地獄もなにも作家未満の自分たちは、いったいどうしたらそのステージに立てるのでしょう。
今日は、書き続けた先にぼんやりとステージが見え始めた人のお話です。
書いていくうち、自分は一体どのレベルにいるのか、作家になれる資質があるのか、勝負できるものが書けているか、それを知りたくなってきますよね。
『いやいや。趣味で書いているだけだし。まだまだ自分なんか……』
あなたはそう思っていますか?
でも、その先で、やっぱりそれが知りたくなるのではないですか?
自分の評価。プロになる才能があるかどうかを。
そして公募に挑んでみる。
少なくとも、こばちの場合はそうでした。
初めての公募。誤字脱字をチェックして、応募規定をチェックして、ドキドキしながら原稿を送る。『新たなる才能の発見』『新進気鋭の作家現る』こんなふうに誰かに認められ、受賞したらどうしよう。どうしよう、どうしよう……
と、いうような心配が現実になることはありませんでしたけど。笑
結果として手応えすら感じることなく、きちんと送れていたのかと心配になるほど静寂のうちに挑戦は終わる。(こばちだけですか? そうじゃないよね、たぶん)
一次選考も通過しなかったということは、いったいどこに原因があるのだろう。何が不味いのか。どうしたらいいのか。
ここに至った書き手はおそらく、そこから本気で学びはじめる。もしくは調べはじめる。読み、書き、反応を確かめ、足りていない部分を探し、反映させる。そのうちに、少しずつ成果が出て来ます。
選考通過者の中に初めて自分の名前を発見したとき。躍り上がるくらい嬉しいでしょう。次の段階も通過したとき、自分を少し褒めるでしょう。
けれど、その先に本当の苦しみが待っています。
二次通過をした文学賞にまた送り、その結果が前回以下であったと知る恐怖。最終選考に名を連ね、次回もそこに名前があってしかるべきと、いつの間にか信じていたことの恐ろしさ。受賞の足音を聞きながら、それが目前を通過していくときの絶望感。
多くの場合、受賞者は階段を一歩ずつ上がってゆき、最終選考通過者という踊り場の先に、見上げるほどの壁があったことを知る。その壁を楽々と(と、傍目には思える)越えて行く者と、そうではない者、その差は一体なんでしょう。
賞との相性? それとも選考委員との? 体調? 運? タイミング?
気が付きましたか?
上記の理由はすべて、作者にはどうしようもないってことに。^^
では、そんな理由で夢を諦める? そうはいかないよね。絶対に。
ある日あるとき、こばちは、『どうすれば受賞できますか?』と、訊ねてみました。
答えはこうです。『フルスイング』
今、こばちにはその理由がよくわかる。
もしもあなたが受賞一歩手前で伸び悩んでいるのなら、持てる力(だけ)で勝負するのをやめなさい。
あの時、自分はそういわれたのだと思います。
持てない力をこそ身につけて、二倍の難しさの作品を書く。(ここでいう『難しい』は作品の内容ではありません。自分にとって難しいということです)
不得手で避けていた表現。時間がとれずにおざなりにしていた調べ物。手に負えないだろうと避けていたテーマ。キャラクター。設定。その他……ヘトヘトになるまですべてをぶち込み、もうこれ以上のものは書けないと思う。そんな作品に挑みなさいと。
そんな作品を書いてしまったら、結果がもっと怖いですか?
大丈夫。もしもそこまでやり遂げられたら、『ここまでやってダメなら仕方がない』と、清々しい気持ちになるはずだから。そして努力は次へつながるでしょう。
ここで冒頭に戻りますが、作家の仕事とはつまり、そういうものだということですね。公募突破に全霊を費やしたとしても、次に挑むのはその上の壁。しかも、必ず越えなければならないのです。毎回。毎回。
私たちが新刊を手にするとき、その奥にいるのは同じ人間です。同じように悩み、同じように苦しんで、同じようにコツコツと書いている、作家という人。時間に追われ、孤独と戦い、背中に大きな責任さえ背負って。
いつかそこへ行くつもりなら、なぜ今、進み続けることに疲弊するのか。書けないことに甘んじるのか。そんな時間を自分に許すのか。こばちはそうやって自分を鼓舞しています。
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